『すべてがFになる』『冷たい密室と博士たち』

1996.7.12


<冷たくFになる>私的森博嗣論

 第一考 コンピュータに関する知識

 特徴を最も的確に現しているのは、『すべてがFになる』(以下"F"と表記)の冒頭p23上段からのスクリーンセーバーに対する説明と他の用語に対するそれとの違いだと思う。
 「これは、ディスプレイの焼き付けを(略)プログラムが表示しているのである」
 説明するのは良い。しかし、こうした説明が行われる以上は、スクリーンセーバーと云う言葉を知らない読者を森氏は対象としていると推定させていただく。説明すると云うのはそういう事である。
 これに続いてp26上段最終行からはインタープリタやオペレーションシステム、MIT等の言葉が、なんの説明もされずに使われる。
 もちろん、これらの用語を知らなくとも"F"を読む上で、内容を理解する上で、なんら支障はない。
 こうした用語は、"F"で描かれる世界がコンピュータが日常的に使われる世界で有ることの説明でしかない。
 その上で、なぜスクリーンセーバーは説明されてインタープリタはされないのか。
 別の見方をすれば、スクリーンセーバーを知らなくてインタープリタは知っている人−−それが森氏が対象とした読者だと考えるが−−そうした層とはどういう人達なのか。
 それを知らないままに森氏の言葉の使い方をあれこれと指摘するのは、実は意味のない事である。
 残念ながら私は森氏の想定した読者層を想像する事ができない。
 であるから、以下の推察は間違っている可能性の方が高い。その上で尚指摘したい。
 ・森氏はコンピュータに詳しくない
 これが随分と乱暴な指摘である事は理解している。しかし、上にあげた語句に関する記述以外に、"F"にはこうした箇所が随所に見つかる。新作の『冷たい密室と博士たち』(以下"密室"と表記)にも同様の傾向が見られる。
 自分が簡単に説明できる用語については説明し、それ以外の語句は生のまま散りばめる事によって、作者がそうした知識に深く関わる者であると読者に誤解させる。その誤解−−善意による誤解−−の上に構築された世界の中では、それが現実的にはありえない事象であっても、読者は甘んじて受け入れるしかない。これはフェアではない。
 フィクションである事は免罪符にはならない。
 読者は日常の延長に物語世界を見る。未だ唱えられてもいない物理法則や発見されていない科学技術の上に成り立っている世界であるならば、それについて作中で触れられていないのはアンフェアだと思う。
 最後になって、実は犯人は透明人間でしたと云われたら、それはミステリとしては成り立たない。
 コンピュータに関する点に限れば、"F"の中ではそれに近い事が行われている。"密室"でも似たような誤解を読者に与えている箇所がある。
 これ−−善意の誤解によるトリックの成立−−が森氏のテクニックだとするならば、叙述の新しい形式として評価する事もできるが、残念ながら森氏自身が誤解しているとしか読めない記述と、トリックを成立させる為に意図して事実を曲げている点の二つから、"F"そのものがミステリとして成立していないと結論付けさせていただく。

 さて、上記の結論は私が有している知識の延長で得られた物に過ぎない。前提としている私の知識が間違っている可能性も、また充分に考えられる。

 "密室"では低温実験室という施設が作中に登場する。これは冒頭に建物の図解が示される。一見して疑問に感じるのは、二重ドアで他の施設と区切られた実験室が、建物の外に向かっては通常の方法で接続されている点である。実際の低温実験室がそうした構造になっているかどうか私は知らない。このような構造なのかも知れない。であるならば以下の指摘は間違いである。
 一方を二重ドアとして断熱性を高める工夫をしているのに対し、もう一方をそうしないのは不自然なのではないだろうか。
 仮にこれが、物語を成立させる為に森氏が行った工作であるとしたら、それはご都合主義という名のアンフェアではないだろうか。
 コンピュータに関する点がそうであったように。

 第二考 論理と数学的アプローチ

 森氏の作風を「論理的」と評する人がいる。私見に過ぎないのだが、氏の作品を評価しない立場の人は「論理」の意味を取り違えているのではないだろうか。
 「論理的でない思考」と云われてすぐに思い出すのは、かのバルカン人であるMr.スポックだが、日本語に変換する際の不手際なのか、論理は感情と対極にあるかのように扱われている(この件に関して原文の正しい意味をご存じの方はお知らせください)。
 「論理」とは
 1.与えられた条件から正しい推論が得られるための考え方の筋道
 2.現象を合理的・統一的に解釈する上に認められる因果関係
 (新明解国語辞典−三省堂−より引用)
 であり、
 「論理的」とは
 前提とそれから導き出される結論との間に筋道が認められる様子
 (新明解国語辞典−三省堂−より引用)
 の事である。
 つまり、本格ミステリあるいはパズラーと呼ばれる(もしくは評価される)作品は、必ず論理的でなければならないはずである。そして、感情もまた論理で取り扱われる対象であるべきなのだ。
 まず現象がある。それは密室でありアリバイであり消えた凶器である。その現象が論理に因ってのみ解釈されているのであれば、導かれた結論がどんなに突飛な物であろうとも、それは論理的な帰結として受け入れなければならない。

 パズラー的な作品において探偵に求められる資質は数学的な手法、あるいは素養に例えられるのかも知れない。
 与えられた函数f(x)の機能を、入力と出力からのみ導き出す事が論理的な探偵であるべきなのだ。
 前提を立て、検証し、解を導き出すのが探偵なのだ。
 結果としての解が一つである必要はない。二つやそれ以上、不定となる解が存在していても、それが論理によって導き出された結論であるならば受け入れなければならない。その事を忘れてはならない。それが論理的という物だ。

 さて、"F"と"密室"はミステリである。であるならば、求められた解は一つでなければならない。二つ以上の解が存在する、あるいは解が存在しないミステリも魅力的ではあるのだが、森氏の目指した所はそうでない。何故ならば、解を一つに限定してしまっているからである。そこに"F"と"密室"の破綻がある。
 解が一つである事を前提条件に論理を組み立てているのである。
 森氏の(あるいは作中の探偵が)導き出した結論を覆すのは容易な事である。反証を一つだけ提示すれば、それだけで崩れてしまう論理でしかない。そして反証はすぐに見つかる。
 もちろん、一般に本格ミステリやパズラーと呼ばれる作品にも、このような欠点はある。
 それを読者に伝えないのが、読み取らせないのが作者としての力量であり、作品の出来として評価される点である。
 森氏の作品に、残念ながらそれを見つける事は難しい。まだわずかに二冊の本を著しただけに過ぎない。文章を書く事に慣れていないだけなのかも知れない。書き続ける事によって、それは開花する才能であるのかも知れない。
 しかし、現時点での作品が、それが論理的であると云う点で評価されているのであれば、その評価は間違っていると指摘させていただく。

 以上の文章が論理的かどうかと森氏の作品が論理的かどうかとの間には、なんの相関関係もない事は明記させていただく。
 論理とはそうした物であるから。

 第三考 「人間を描く事」と不自由な日本語

 前項までの考察により、私にとっての"F"と"密室"は、ミステリとして特別に優れている作品ではない事を明らかにした。
 誤解を恐れずに付け加えるならば、凡庸な出来であると評価させていただく。
 しかし、それはパズラーであったり本格ミステリであったりする部分についての評価であり、小説としての評価はまた別である。
 では、小説として、あるいは物語としてはどうなのか。
 充分すぎる程に魅力的であった。少なくとも"F"は私にとって。
 その魅力がこれからも氏の作品を読み続ける原動力となるかについては、疑問視しざるを得ない。
 断定してしまおう。魅力は色褪せたと。
 "F"において示された(と私が思った)森氏の独創性は、"密室"において、著者自ら否定されてしまった。

 森氏の作風に対して「人間が描けていない」とする評価と、「理系の人間を充分に描いている」とする評価がある。
 これは対立する評価ではない。
 「人間が描けていない」とは何を指しているのか。
 登場人物への感情移入が出来にくい事を現しているのではないだろうか。
 読者がただたんに、作中の人物像を想像できないだけに過ぎないのではないだろうか。
 それがステレオタイプな陳腐なキャラクターであっても、読者にとって馴染みのものであれば、人間が描かれていないなどと指摘される事はない。読者が望むのは記号化された分かりやすいキャラクターなのである。この点を誤解したままの評価がなんと多いことか。
 読者は、森氏が描き出した「理系の人間」が身近にいない事と、それまでに知ることのなかったタイプの人間である事から、理解する事を放棄してしまうのである。「人間が描けていない」と。これは正しい。そもそもの所で、想像出来ない物は創造できないのだから。感情を移入する事ができないのだから。
 一方、「理系の人間を充分に描いている」と評価する事の出来る人は、前者とは違い、自らがそうであったり身近にそうした例を持っている人である。その上でのこれは正しい評価である。
 けして相反するものではない。基準となる絶対座標は存在しない。自分がこれまでに得てきた経験なりからでしか類推する事は出来ず、拠っている所が違う事による二つの評価は、そのどちらもが正しい。
 「人間が描けていない」と評価する事は容易い。しかしその評価は、読者が理解できなかった事の言い訳でしかない。
 無意識にこの言葉を使うのは、思考停止を宣言しているに他ならない事を意識するべきである。

 パズラー趣向の小説に人間を描く事が必要なのかどうか。
 残念ながら、この点について論じるのは本稿の趣旨ではない。
 畢竟、エンタティメントでしかない−−これは貶しているのではない。誉めているのである−−小説は、作者の提示した世界で遊ぶ事が出来ない人間は出ていくしかないと思う。それで構わないはずである。

 以下は付けたしに過ぎない。「人間を描く事」と同じく、読み手によって受け取り方は様々であるからだ。
 私には相いれない表現の方法であった事を示しているだけである。
 用語に付いては第一考で述べている。それ以外の日本語の使われ方にも違和感を感じる。
 それは"密室"において、より明確になっている。具体的な箇所は示さない。原文にあたって判断して欲しい。
 恐らく、人称が曖昧なままに不定となったり、一人称部分であっても時制が乱れてしまうような記述に戸惑う読者は、作品世界に没頭する事は出来ないだろう。そして、それは作者にとっては明らかな不利となって働く。

 (未完)



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