『刑事失格』文庫版解説について

1996.7.18


 解説について書くのは、誰がどう見ても書評じゃぁない。でも「書評のようなもの」と断わっているのだから良しとしよう。

 太田忠司氏の『刑事失格』が文庫化された。これは一ファンとして純粋に嬉しい。新書判が絶版なのかどうかは分からないが、入手しやすい文庫になった事で氏の作品に触れる機会が増えた事は、単純に喜ぶべきだと思う。
 主人公である阿南は、作者も触れているが、個人としての(つまりは作家としてではない)太田忠司と極めて近しい存在にある。それを著者自らが宣言してしまう事に多少の違和感は感じるが、『刑事失格』は氏の作品を読み解く上で、ある種のキーワードになる作品だと思う。
 言葉を飾るのは止めよう。私は『刑事失格』が好きだ。阿南の行動原理に共感を感じる。次作である『Jの少女たち』と未だ書かれてはいない阿南のその後は、恐らく三部作を形成する事で、初期の殺人三部作にも通じる、作者の小説に対する姿勢を露にする事になるはずだ。
 これは勝手な思い入れに過ぎない。そもそも阿南の物語が三部作になるなどと作者は一言も述べていない(はず)。

 さて『刑事失格』文庫版の解説。
 解説を読む際には二通りの道がある。本文を先に読むか、解説を先に読むか。
 解説の書き手は、それを意識しないといけないと思う。
 ところが、残念ながらこの解説はその点が曖昧なままになっている。
 はっきりと気になる箇所が二つある。それを例にあげて説明する

 まず、解説はある状況に対面した時の行動について読者に問いかける所から始まる。
 具体的な例を二つあげ(コロッケと信号機付きの横断歩道だと云えば、『刑事失格』を既に読んでいる人には充分だと思う)、各々に二つの選択肢を付けて読者がどちらを選ぶかと問いかける。
 この設問はなんなのだろう? 解説としてどういう意味があるのだろう?
 本文を既に読んでいる読者には、設問の答えは明らかである。
 解説者自身も明らかにしているのだが、この設問は阿南の行動の規範に深く関わる事である。
 それは構わない。しかし、この点からだけでも、この解説は本文を先に読んでいる事を前提に書かれていると思うのだ。
 解説も読み物である以上、読者の興味を如何に惹くかというのは重要だと思う。その点に限れば、この解説の冒頭はなかなかに興味を惹く書き出しだと思う。
 もちろん、阿南の(自ら課した)規範は解説に触れられている事だけではない。これは表面的な事例に過ぎない。しかしだ。それが抽出される事によって、これから本文を読むであろう読者にある種のバイアスとして働いてしまう事は間違いのない所だと思う。そこまで意識したのだろうか、解説者は。

 もう一点。タイトルの『刑事失格』が示すように、作中の登場人物の誰かは刑事を失格する
 例えは悪いが、「〜殺人事件」とタイトルにある本は、作中でなんらかの殺人事件が起きる事を読者は予想する。であるのだから、『刑事失格』でも刑事を失格する人間が登場するのは確かな事なのだろう。
 しかし、それが誰であるのかと、どういう形で刑事を失格するのかの結末を楽しむ事は、読者に与えられた物だ。けして解説者や解説する事に与えられた物ではない。
 解説を書くのはとても難しい事だと思う。場合によっては、解説や後書きを読んでから本を買うかどうかを決める読者もいるはずだ。本を買う=読む事を既に決めている人と、買わない=読まない事を決めている人に対しては、解説も後書きもそれほどの力はないのだろう。影響があるのは決め兼ねている人へだ。興味を惹かせ後押しをし、本を手にとらせる事こそが解説に求められる物なのではないだろうか。
 解説する際に、必要であればネタを割る事も構わない。但し、それが許されるのは意識して行う場合だけだと思う。
 「贔屓の押し倒し」という表現を私は好んで使う。
 今回の文庫版の解説は、私には「贔屓の押し倒し」に見える。
 解説者の『刑事失格』と阿南の物語への愛情が伺えるだけに、よけいに残念な解説である。

 この拙文も「贔屓の押し倒し」だろうと思う。
 本文をまだ読んでいない読者へは、なんらかのバイアスとなって働く事も間違いない。
 それで構わないのだ。
 なぜならば、これは極めて私的なラブコールに過ぎないのだから。



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